今朝、柘榴の写真撮ってて思い出した今から20年ほど前に出版された本のタイトル。反核の思いが込められた長崎頓珍漢人形の作家、久保田馨さんの伝記である。独創的な泥人形を生み出す作家の優しさと孤独に当時のぼくは深く共鳴したものだ。著者は銅版画家の故渡辺千尋さん。渡辺さんはこの作品で第1回連如賞を受賞した。ずっと忘れていた本を思い出させてくれたのは日頃から何かとお世話になっている、舞台照明家のYさん。昨春、長崎西高校の同級生の個展が練馬区立美術館で開かれているから行かないかというお誘いがYさんからあった。その同級生が渡辺千尋さんだった。人形作家、銅版画家、照明家に共通するのは被爆体験と創造を仕事として選んだということ。Yさんとは明後日に会うけど、ぼくはいつも学ばせていただいている。普段はとても穏やかな人だけど平和にかける思いや現政権に対する怒りは並大抵じゃない。今日も地元光が丘で戦争法案を廃案に追い込むためのビラ配りをしているはずだ。あれ以来Yさんと飲むと、うしろに人形作家と銅版画家がいてぼくに笑いかける。つくづく出会いは不思議だと思う。それは時空さえ飛び越え、思いもよらぬところで待ち受けているのだから。
2015年05月
スティーブン・フォスターの作品中、ぼくが最も好きな曲。
去年の晩秋、府中で青年劇場の『島』を観て、感想ともつかぬ印象文を書いていたらふっと旋律が浮かんだ。
最近は不穏なニュースを見聞きするたびにこの祈りの歌を口ずさむ。
【ハード・タイムズ・カム・アゲイン・ノー・モア】
もう一昨日になるけど、府中の森芸術劇場で青年劇場の『島』を観てきた。
舞台はアメリカ占領下にあってちょうどサンフランシスコで日米安保条約が調印された年から翌年にかけての広島県倉橋島音戸あたり。
1945年8月6日の広島にも昼間人口として統計される人は相当数いたわけで、あの日どこに居たかがその後の生を分けた。有無をいわさず押しつけられた運命は時に人と人を分断にかかる。これが島の濃密な人間関係の中では余計に際だち、どこまでも追いかけてくる戦争を思ったりした。
被爆した若い教師、栗原学が部屋に映る自分の影を見て「生きてやる」と叫ぶように言う生への渇望に満ちたラストは震えた。
瀬戸内の美しい夕陽や清盛祭りの喧騒と共に、匂い立つような人同士の交わりがそこにあった。狡猾も猜疑も、妬みさえもが愛おしいものに思えた。誰かを恢復させることが出来るのは、本人ではない誰かだ。
終演後に友人から聞いて知ったのだけど、お連れ合いを亡くされたばかりの女性が観に来ていたらしい。原因は白血病とのことで学が重なり開演から泣き通しだったとか。ぼくは勝手に想像するしかないけど劇場に来てもらってそれで良かったんじゃないかと思った。芝居を観るということについてちょっと思いをめぐらせた。
帰り道、気がついたら小さな声で『ハード・タイムズ・カム・アゲイン・ノー・モア』(詞は我如古より子さんのやつ)を口ずさんでいた。
2014.11.26
ぼくが樹木や草花に対するとき、いつも意識するのは風だ。風に目を凝らす。
写真家の文章が好き。たとえば、土門拳、たとえば藤原新也、中平卓馬、星野道夫、石川文洋。友人の大西暢夫さんもそう。それぞれの得意とする被写体の領域に留まらず、書かれる対象はこの世界の様々な事象に及ぶ。ぼくがなかなか言葉にできないで悶々としていることを彼らは代わりにさらりと言ってくれる。そのたびにぼくの新しい窓が開く。驚かされるのはまず物を見つめる目、並外れた視力と、洞察力、思考力、そして表現力。いったいあの人たち自身が優れたレンズなのではないかと思うことがある。
星野道夫が小学生時代、授業は上の空で、地球の裏側の海上をしぶきあげてジャンプする鯨の姿をいつも想像していたというのは有名な話。自分が学校でこうして机に座っているときも、巨大な鯨が跳躍している。教室の中ではるかかなたの自然界と時間を共有していることへの驚き、不思議が伝わってくる文章は星野道夫のなかでも最も惹かれるひとつ。この想像力が写真家の素地にあると思えば彼の残した仕事もなるほどとうなづける。そしてそういう時間を持つことのできる教室ってやっぱりすごいと思うし、大人の思いのはるか向こうで子どもは育つと確信もする。
今日は風が心地よい。バラもハマナスも揺れていた。シモツケ、柘榴、水面のアサザ、羊草なども目にとまった。依然として緑は濃く、陽光は葉裏を透かす。しかし季節は確実に動いている。
夜中に雷雨の大音響で目が覚めた。物凄い降りで町全体が洗浄機の中に放り込まれたようだった。
今朝、平和公園のラヂオ体操に久しぶりで参加した。洗われた大気とひんやりした風が澄んでいた。大きな水たまりに映った緑が、深呼吸すると肺まで入ってきた。
午前6時前、さっとウエアに着かえて玄関を出る。気候は今頃が一番いい。この時間はまだ人通りもまばらだし車もほとんどないから走りやすさも手伝う。かといってしゃかりきにはならない。っていうかなれない。ランパンのポッケに突っ込んだスマホで目にとまった風景を写し撮る。これがなんとも楽しい。だから走っちゃ立ち止まり、立ち止まってはふたたびトコトコ走る。そんな具合。
それでも一年も続けてると、身体が軽く感じられるようになってくる。お気に入りの“CASIOフィズ・タフソーラー”(しばらく行方不明で、こないだ再会できたばかりの愛おしいヤツ)で一応タイムも測っている。計測の楽しみにも背中を押されて、寄り道しながらも記録(腕前でなく足前ね)が徐々に上がってくる。人間の適応能力と筋力の可逆性にあらためて感心する。
たまに仕事の関係で昼頃に駆けることがある。商店街を通るコースだからちょっと人が多かったりするのでラグビーのスタンドオフの真似をしてサイドステップを踏む。華麗に。いくわけない。通行人の中には当然迷惑そうな人もある。小さくお辞儀して心で謝りながら走り抜ける。そんなことだから早朝よりはペースが上がってないだろなと思いながら時計を横目で見てみる。あれ、そうでもない。朝の冷えた空気の中と、昼の陽射しと人々に暖められた空気の中は時間の進む速さが違うんじゃないかって最近思っている。なんの根拠もないけど。身体感覚。用事で歩く時より、仕事で車を走らせるときより、時間がゆっくり進む。空気が濃い。そんな時間を味わう。ぼくは昼の駆け足も好きになった。でもやっぱりみんなの迷惑だから、朝にしよう。人がいるから人混みがある。人混みの時間が好きだ。ここまで書いて、何を言いたかったのかわからなくなってしまった。健忘症が進んだみたいだ。明日もう一度人混みを行けば思いだすかもしれない。そのかわりにたった今、一つ思い出したけど、この30分足らずの時間を過ごすようになってからあまり冷や汗をかかなくなった。さてと。
明日は深夜の新聞輸送があるので早寝だ。
すっかり足に馴染んだランニングシューズはジュリアン・ソレルと名付けている。あとの写真は昼の光の下のやつね。
やけに長いタイトルになっちゃったけど、紀伊國屋サザンシアターで、青年劇場の新作『オールライト』を観てきた。“青年劇場ユースフェスティバル”に位置付けられている作品のひとつなんだそうで、タイトルからしていいんだけど中身も、ただただ良かった。
初日でこの出来だから明日以降も大いに期待できると思う。ふっと思いだしたのは、ぼくが若かりし頃のことで、確か人権についての学習会だったか、講師の先生が一見一聞すると難しそうな“権利”って言葉の意味を理解するには英語に置き換えてみるといいって言ってたこと。
それは“right”であって直訳すれば“その通り!”って意味なんだよと。
講師の名前もレクチャー内容も今となってはまったく残ってないけどこれだけは鮮明に憶えている。
人間はだれしも不完全な生き物。それだからこそ他者と繋がることなしに生きていくことは出来ない。
なんか吉野弘っぽいけど、いやぼくは大好きだけど、誰かに自分の中の欠落を補ってもらえて初めて、他人に“オールライト!大丈夫”って言ってもらって初めて、一歩を踏み出せる。そしてそうやって踏み出せたなら、ようやく誰かの背中に手を添えることが出来るんだ。相互補完の関係。この繰り返し、この連なりが自分を変える。そうじゃないだろうか。
人間は生身だ。みんな生まれついての徒手空拳だもの。
とにかくなんだかとても温かくなれて、自分にもこんなにやわらかくて優しい部分があったんだって感じられる芝居だった。
ボブ・ディランが久し振りに聴きたくなった。なんでかは、観てのお楽しみ。
はねてから、U治さん、K島さん、直ちゃんなんかと夕飯がてら飲んだんだけど、みなさんいつも以上に温顔だったよ。
けっこう酔ってるなあオレ。
おやすみなさい。
ぼくが「キョウライ」(兄弟ね)と呼ぶ唯一無二の友人“ぴゃん”から先だって届いたメール。解読に難儀してるとすかさず次のメールが来た。
みなさん、ワラビはうまく処理して食べましたか?忙しくてうまくできなかったなら、ボクがやったのがあるので送りましょうか。
まあぴゃんは昔からいたずらっ子な面があったんだけど50越えたおっさんの今も茶目である。たとえばいつだか能登出身で埼玉在住の彼の守備範囲が広くマニアックなブログ『折々の備忘録』http://www.jimori.cocolog-nifty.com/に芝居の日程が間違って書かれていたので、これ違うよとメールしたら、「来ると思ったよひっかかたね、ヒヒヒ」だけの返信が来たりする。最近も『はい、蒲田製作所。』とか書いてるからオイオイだいじょぶかいなと思ってやっぱり訂正を促がすメールを送ったら「えへへ」と返ってくるしね。毎度引っかかるぼくも情けないんだけど、普段会えないから近況はブログを読むことで知るしかないわけで、職場環境変わって残業続きでブラックだとか、体調いまいちとかあると心配になるんだよね。
友人と言ったけど、ぼくらのかつての仕事、社会教育では専門職として入間地域の同世代の象徴的存在で、素人で飛び込んだぼくにとってはお手本であり目標だったんだな。とにかく地域への仕掛け方が独創的でダイナミック。それでいて地域課題と時の社会情勢をしっかり結んで問題提起も的確で鋭い。地域とこの国と世界を串刺しにしてって上原専禄ね。何より本気度がすごかった。住民からの信頼を得るのは本気度だもの。まあその勢いで周囲を随分ヒヤヒヤさせていたのも事実だけど。さらにはT市社会教育職員不当配点を闘ったその一人であり、遅れてきたぼくは記録集を読むしかなかったんだけどこの分野の歴史を垣間見るきっかけにもなった。そして今も労組の執行委員長として公立保育所廃止問題に保護者をはじめ市民と一緒に取り組んでいる。それからそうそう、イラストや写真もすごい。実はぼくの写真の師匠なんね。あんまり褒めるとまたあとで落とし穴にはめられるからこれくらいに。とにかく無理しないでください。
さっきお礼のメール送ったら、いきなりイギリス下院選挙の結果の分析などが返ってきた。こういう面倒くさいとこ好きなんだよな。ぼくもけっこう面倒くさいって言われることあるからね。で、選挙結果は意外でもある反面さもありなんて感じも。まあUKも二大政党を祭り上げる演出がどんどん露骨になってきてるんじゃないかと勝手に思う。完全小選挙区制というトンデモだし。そもそも有権者が展望を持てない選択肢が仕組まれてきたわけで、これじゃね。ぼくは不勉強でまったく詳しくないが。キョウライが言ってるけど労働党も今や緊縮財政論を打ち出したり日本の民主党的な立場にあるらしい。そういえばブレアなんか確かそれ証明しちゃったよね。SNPに牛耳られるととんでもないことになると保守メディアの世論操作が保守層を保守党になだれ込ましたのでは、という分析もうなづける。ぼくの貧しい経験からもその辺は推測できる。一方的に不安をあおられたときに人がどう行動を取るかを分けるのは、不安の根っこを握る、持つことが出来るか、できないかだと思う。根のある不安は変える力になりうるけど、根のない不安はただ保守化するんだ。無思考はまったくもってNGだ。いずれにしてもぼくらの国と一緒で地殻変動は相当に大きいと思われこれからも三歩進んで二歩下がる一進一退を進むしかない。ワーキングクラス頑張れ!連帯しよう!パンクで行こうぜ。なんてね。
パンクってば『酒中日記』ブログに感化されてD・H・ロレンスを今読んでいるんだけど、ロレンスってこれが労働者階級出身のパンク作家だったんだね。そういうこと踏まえて読むと『チャタレー~』も発禁の歴史を持つエロな小説のイメージとはまったく違う世界が立ち上がってくる。コニーもメラーズも押し付けられた宿命や階級社会なんかとそれこそ身体を張ってたたかっている。
さて今夜は宿直。生のとあく抜きしたのに鰹と昆布の自家製だしが添えられた能登の風土と季節の味を堪能するのは明日の楽しみとして寝るべ。
緑の二葉はユリノキとミズキ。
職場の書籍コーナーに新刊が届いた。興味をひかれたのは『歴史を読み替える ジェンダーからみた日本史』ほか3冊。ぱらぱらめくっていたら去年の秋に大久保の高麗博物館を訪れたことを思い出した。
2014.11.16
身辺がにわかにせわしなくなってきたもんで今朝撮った写真をすっかり忘れてた。昨日の東京新聞夕刊が高麗博物館を大きく取り上げていた。たまたま日曜日に訪れたばかりだったから自分的にもタイムリイでおおおっ!となった。ここがあることは上甲米太郎の伝記を読んで知ってたけど、なかなか実現出来ないでいた。
公開中の企画は『朝鮮女性史展~ひたむきに生きた朝鮮・韓国の女性たち』。ぼくには瞠目の展示だった。例えばジェンダーの視点で日朝韓近現代史を捉えてみると今までの貧弱な男(もち自分も)の甘ったれた認識は巴投げにあう。女性に対する儒教社会の抑圧、言い換えれば圧倒的な男性社会。そこにぼくらの国が過去土足で踏み込んだ過去などを重ね合わせてみる。想像を絶する。絶すると言った時点で対象から目をそらしてることの証左だから正視せよと自分に言い聞かせて10分20分とパネルの前に佇む。次第に身体が熱を帯びてくる。それはたぶん知らないということへの羞恥であり隣国の人々の体温でもあろうかと思う。
これまでのものも含めて企画展示はすべて日本と韓国のボランティアの手によるそうだ。地続きの加害の歴史を徹底的に調査検証して公開する。これほど痛みと緊張感を伴った豊かな学びがほかにあるだろうか。
身近な参加型博物館の可能性も示唆しているとも思う。
ぜひ多くの人に職安通り第2韓国ビルの7階を訪ねて欲しい。隣国朝韓を祖国とする誇り高き彼女彼らに対してあるまじき行為や暴言を投げつける犯罪を犯してよしとしている人も。小一時間もいれば自分の中の何かがきっと、きっと動くと思うから。