どうしたんだ日記

Resonating with the landscape

2015年11月

『小泉今日子書評集』

IMG_20151125_123505 ぼくは新聞や雑誌の書評を読むのが好きだ。おかげで本の山が枕元まで侵食してきて今や雪崩寸前である。

 書評するって、対象の本をかりて自分を語ることでもあるんだなとあらためて。
 ふだん口に出しにくい不安や憤りも、例えば小説の登場人物に託したなら吐き出してしまえることだってあるだろう。
 そんな一行を見つければこちらも共振して、紹介されている本につい手が伸びてしまう。

 小泉今日子さんが読売新聞の書評委員としてこの10年間に書かれてきた97冊分の書評が集められている。 

 かつてのアイドル、現在俳優としての小泉さんはこの本の中にはいない。浮かび上がってくるのは「生きることは恥ずかしいことなのだ。私は今日も元気に生きている」と言い、ぼくらと似た悩みを持ちながら自分自身と真摯に向き合う一人の読書好きな女性の姿とその日常だ。
 
 キョンキョンがとても身近に感じられたし、取り上げられた本も、もちろん読んでみたくなった。
 人は一冊の本を媒介にして緩やかに繋がれるのだ。
 
 より多くの人に本を手にしてもらうためにも書評文化を根付かせることは大事だ。
 また、ビブリオバトルに象徴されるように学校の感想文も、より楽しくてそのうえ個々の表現が求められるこちらの方へとシフトしていったらどうだろうかとも思った。DSC_8261

相談芸

IMG_20151114_065108 昨夜は板橋を脱して息抜き。

 考えてみればぼくの人生はほとんど息抜きで出来ている。

 久しぶりにジュンク堂のトークセッションに参加した。

 カリスマ書店員の田口久美子副店長が司会。

 ゲストは伊藤比呂美さん。ぼくは昔から好きだったんだけど、石牟礼道子さんとの共著『死を想う』を読んでからいっそうファンになった。

 去年、岩波新書から出た『女の一生』は老若女性たちの様々な悩みにこたえる人生問答集で、修羅場を積んだ詩人の直言が冴える。

 セッションはそのライブ版。来場者から集めらた相談一つひとつにコメントしてゆく。当意即妙の回答に会場は爆笑しながら頷いている。数少ない男性客のぼくも時に身につまされながら笑い、頷き、生きる栄養をもらった。

IMG_20151114_071155 これはもう芸と言っていい。伊藤さんは即興相談芸と言うひとつのジャンルを確立するのではないか。そう思わせるくらいに面白かった。

 このあと九州でもやるそうだ。

枕元に置く全詩集

IMG_20151111_210205 5月に亡くなった長田弘さんの『長田弘全詩集』が届いた。ぼくは好きな詩人の全詩集が出ると反射的に買ってしまう。思いつくだけでも、中原中也、尾形亀之助、山之口貘、菅原克己、鳴海英吉、辻征夫、吉野弘などがある。詩の全集は小説と違い一作品が長いものでも数ページだからたいがい一巻に収められている。挙げた詩人も中也の2冊を除いて皆そうだ。分厚く重い本を手にすると、その詩人の生涯を抱いているような気持になってきて指先から温くなってくる。全詩集に惹かれる理由のひとつ。だけど持ち運ぶのには向いてないので電車やバスの中では読めない。だから寝床でよむ。それも仰向けだと数行追っただけで腕がすぐに痛くなってしましょうので腹ばいで読む。一篇を繰り返しよむ。気に入った一行を何度もよむ。言葉がじわじわと体に染み込んできた頃には首も疲れて眠くなる。

IMG_20151111_063049 で、長田弘さんだ。長田さんの詩を読むとじっとしていられなくなる。読み手が何かをしたくなってうずうずしてしまう。そういう詩を書く人。例えば物語や難しそうな哲学書が読みたくなって図書館に行ったり、温かいスープが欲しくなったり、空を眺めたり、草っぱらの匂いを嗅ぎたくなったり樹木の肌に触りたくなったりする。あるいは頭の中をファーブルさんが歩き回って止まらなくなって近所の森へ昆虫の写真を撮りに行かせたりする。長田さん自身が旅する人だったし、歩くひとだったし、つまりは移動を書斎とする人だったからかもしれない。タイトルのつけ方もうまい。『世界は一冊の本』とか『食卓一期一会』、『死者の贈り物 詩集』など。背表紙を見ただけで好奇心と想像力が掻き立てられる。何気ない日常にあっても玄関の扉の向こうには旅が待っているのだと詩人は教えてくれる。今夜も腹這って詩を。明日が来るのが楽しみになる。

『告白』

DSC_3313 DSC_3322 文庫になっても、持ち重りのする800頁超の大作に腹を抱え呵々と笑いながら、やがて戦慄。

 何故か。


 アハハ、アハハ!、アホだなぁ熊やんは…

と他人事として侮蔑、軽蔑して笑い者にする自己と

 あら、これってオレの物語やんか!

と、気づかされ心の暗がりを覗かざるを得ない自己があって、読み進むにつれ後者がむくむくと肥大してくるからなんである。

 果たして城戸熊太郎は、現代を生きる我々自身ではなかろうか。

 惹句に「人はなぜ人を殺すのか」とある。

 至極思弁的な質なのに、思考と行動の不一致に煩悶し続け、あの凄惨な『河内十人斬り』に語り継がれる犯行に及ぶ熊やんと、谷弥五郎にグイグイ惹かれて行く。好きになる。

 こうしよう、こうしたい、と9割方思っていながら、1割の邪推に脳内を突如占拠されて全く反対の行ないに出てしまうことが少なくともぼくにはある。

 人は他者の振舞いの表面をなぞっただけで、例えば「アイツは直情径行型だ」とか「この荒くれ者めが」とかレッテルを貼ってしまいがちだ。
 ぼく自身かつて貼られたことあるし、誰かに貼り付けたこともある。

 あれほど他人の心の動きに鋭敏で臆病で本来優しい熊やんが人を殺すなら、自分も間違いなく誰かを殺しうる。

 ラスコーリニコフが老婆に振り下ろした斧を未だ持っている。
 そう思わざるをえない。

 如何なる理由があろうとも他人の命を奪うことはあってはならない。

 なのに人は人を殺す。

 この永遠とも言えるテーマに一人びとりが自分事として向き合わなければ、戦争を地上から消し去ることさえ難しいだろう。



 追いつめられるほどに各々の罪業に大義を与えて肯定するところは共通する一方 『罪と罰』には救済と再生への希望があるが『告白』にはそれがあるとはちょっと言い難い。

 あえて持とうとするならば、それは熊やん、弥五郎を自分の中に住まわすことだろう。己が如何なる愚者であるかということを忘れないことだろう。

 他人に対してありたい自分から結局はいつも逸脱してしまう熊やんが負のコーナーへ、コーナーへと自らを押しやってゆく道程は切ない。彼がかぶって踊った獅子頭の内側の闇の世界を共有したいと強く思う。

 それにしても作者である町田康の饒舌及び豊穣な言語世界には圧倒される。

 赤坂村の質素で人間臭濃い農村の暮らしと河内弁に河内音頭が相俟って土俗の調子に魅了される。
 
 明治中期の実話を再現するにあたって、今風な用語を要所要所に挿入する絶妙のブレンドさじ加減が読む者に不可思議な人間の深淵を覗かせるとともに遠い時代の他人事ではないと自覚させる効果を生んでいる。

 言葉の裏切り、変調の効用か。

 とにかく、多くの人に読まれんことを願う一冊です。

 
 ああ河内音頭が鳴り止まない。

 CD欲しい。

ハァ

イヤコラセ~ドッコイセ

イヤコラセ~ドッコイセ

イヤコラセ~ドッコイセ

にじむ残響、バザールの夢

DSC_3304 DSC_3305 ええなあ、中川敬の歌も面構えも。
 
 「プラカードの余白を歌いたい」(季刊『人間と教育』インタビュー)と言い放ち、労働者階級に連帯して越境し続ける好漢のソロ新譜が届いた。


 今回は優しさがグッと前に出ている感じ。
 
 アコギ1本で奏でる郷愁と抵抗の意志とが、マーブル状に混ざり合って心地よく響いてくるんである。

 なんつうか無国籍オーガニックの味わい。

 分からん表現だな。
 
 つまり生成の中川さん、てとこか。

 オリジナル曲、カバー曲、民謡に労働歌。

 たとえば、“アリラン”。
 たとえば清志郎の“デイドリーム・ビリーバー”。

 シーナ&ロケッツの“ユー・メイ・ドリーム”が流れた日にゃ泣けた。

 
 ともかく、中川敬を聴こうじゃないですか、歌おうじゃないですか。

 
 ホモ・サピエンス万歳!

フルスピード

63feab85[1] 3f44f2be[1] 気が付いたら、一か月以上もブログを停滞させていた。
 フルスピードで今年が行く。
 年齢を重ねるとともに時間がギアチェンジして加速する。
 写真は色づく赤塚植物園。
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