どうしたんだ日記

Resonating with the landscape

2016年09月

受苦

imageこのところ染色家志村ふくみさんの文章に惹かれ続けている。それは時にぼくの躰の芯を震わす。たとえば、『語りかける花』所収の、ゲーテを引いた「光の根」の一節。

“光が現界に入り、さまざまの状況に出合うときに示す、多様な表情を色彩として把えたゲーテは、「色彩は光の行為であり、受苦である」といったが、私はこの言葉に出会った時、永年の謎が一瞬にして解けた思いがした。光は屈折し、別離し、さまざまの色彩としてこの世に宿る。植物からの色が抽出され、媒染されるのも、人間がさまざまの事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染め揚げられてゆくのも、根源は一つであり、光の旅ではないだろうか。”

こんな風にいにしえの文豪が置いていった言葉を全身で受け止め、自らの仕事に、来し方にかさねあわせて新たな思想を紡ぎだすことのできる染色家の作品が美しくないわけがないと思う。志村さんその人こそ受苦を引き受ける人なのではと思わずにいられない。やはり受苦の人である石牟礼道子さんも浮かぶ。

苦しみもまた、光の旅。そこに救いをみる。

小さい部屋で

今宵は近所の花屋さんでチョイスしてきた花たちを愛でてます。小さなわが家で。静かに…。
トルコ桔梗、カーネーション、スプレーマム。

いいな、花って。image

ハイビスカス

今朝、ベランダのハイビスカスが咲いていた。
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ペンは剣よりも

今日の夕焼けは明日の希望。
ペンは剣より強し。
これこそあらゆる時代に応えうる真理、
かな。
たとえ石でも、刻め。


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志村ふくみ ―― 母衣(ぼろ)への回帰

imageどうしても行きたかった展覧会を雨の世田谷美術館で。素晴らしかった。自然の生み出す色の鮮やかさと繊細さ。炊き出し、染色、機織りの無駄のない動作。手仕事の美。志村さんの真骨頂と言えば文章もそうである。これらはおそらくすべての生命への畏敬の念から発せられているのではないだろうか。人間が生まれるずっと前の自然界が遣わした語り部なのかも知れないと思ったほどだ。それは石牟礼道子さんにも通ずる。
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『マスラオ礼賛』

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またまた面白かった~。
ヤマザキマリさんは知性の人。外注じゃなくてmade inヤマザキマリの、しなやかなで強靭で人に励ましを与えうる知性を持ちあわせているのだと思う。
26人のマスラオはローマ皇帝ハドリアヌス帝からノッポさん、アニメのダメ猫トムまで。母方のお爺ちゃんもいるし。
『テルマエ・ロマエ』を生んだ漫画家のマスラオメーターにかかる古今東西有名無名実在架空の男性たちの共通項は、突き抜けた無邪気、青空のような無責任、そして誰にも負けないこだわりを持ってるってとこか。よくぞこのそうそうたる顔ぶれからこれらをあぶり出してくれましたねって感じ。いわゆる非の打ち所のないイイ何とか系……はひとつもひっかからない。だからっちゅう訳じゃないけど、なんだかこっちも妙に安心したり自信がわいちゃったり。
やっぱり秋の夜長は読書だわ。
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嬉しい再会

一昨日、紀伊国屋ホールで偶然同じ日に観にいらしてた県議Mさん、おつれあいの地域労連副議長YMさん、そして労組時代の先輩Oさんと数年振りの再会。
みなさん共にぼくが大変お世話になった方々である。
嬉しいひとときのスナップをここに。

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青年劇場公演「郡上の立百姓」

 大迫力の群衆劇だった。何しろ郡上踊りの格好よさったら。「かわさき」、「げんげんばらばら」 などいくつもあるとは。
 そして土に根をおろした者(百姓)たちのしぶとさ、したたかさ、骨の太さはどうだ。抑えつけられていた者たちがひとたび立ち上がった時の熱の渦の巻きようは。弱くも強くもある生き物、人間を思いながら大いに励まされた。 
 踊りは今度ご近所の直ちゃんに教わろうっと。

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地域探訪

友人のYちゃんも出店してると言うので、ときわ台南口のお祭りに初めてきた。
すごい人、ひと。はじめてなのに、とても懐かしい風景。
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はるかに高く!

それ行けカープ、それ行け黒田No.15!
きりのない夢であれよ♪
唯一の市民球団のファンを見ているだけで胸が熱くなってくる。みんながみんな「あたしが、ウチが育てたけえ」「ワシが育てたんじゃけえ」と胸を張る。

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