このところ染色家志村ふくみさんの文章に惹かれ続けている。それは時にぼくの躰の芯を震わす。たとえば、『語りかける花』所収の、ゲーテを引いた「光の根」の一節。
“光が現界に入り、さまざまの状況に出合うときに示す、多様な表情を色彩として把えたゲーテは、「色彩は光の行為であり、受苦である」といったが、私はこの言葉に出会った時、永年の謎が一瞬にして解けた思いがした。光は屈折し、別離し、さまざまの色彩としてこの世に宿る。植物からの色が抽出され、媒染されるのも、人間がさまざまの事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染め揚げられてゆくのも、根源は一つであり、光の旅ではないだろうか。”
こんな風にいにしえの文豪が置いていった言葉を全身で受け止め、自らの仕事に、来し方にかさねあわせて新たな思想を紡ぎだすことのできる染色家の作品が美しくないわけがないと思う。志村さんその人こそ受苦を引き受ける人なのではと思わずにいられない。やはり受苦の人である石牟礼道子さんも浮かぶ。
苦しみもまた、光の旅。そこに救いをみる。
“光が現界に入り、さまざまの状況に出合うときに示す、多様な表情を色彩として把えたゲーテは、「色彩は光の行為であり、受苦である」といったが、私はこの言葉に出会った時、永年の謎が一瞬にして解けた思いがした。光は屈折し、別離し、さまざまの色彩としてこの世に宿る。植物からの色が抽出され、媒染されるのも、人間がさまざまの事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染め揚げられてゆくのも、根源は一つであり、光の旅ではないだろうか。”
こんな風にいにしえの文豪が置いていった言葉を全身で受け止め、自らの仕事に、来し方にかさねあわせて新たな思想を紡ぎだすことのできる染色家の作品が美しくないわけがないと思う。志村さんその人こそ受苦を引き受ける人なのではと思わずにいられない。やはり受苦の人である石牟礼道子さんも浮かぶ。
苦しみもまた、光の旅。そこに救いをみる。