どうしたんだ日記

Resonating with the landscape

2017年06月

善が悪に勝てないこともない。

“善が悪に勝てないこともない。
ただ、そのためには天使が
マフィアなみに組織化される必要がある。”
byカート・ヴォネガット

ヴォネガットはまったくもってアフォリズムの職人だ。没後1 0年を迎えて最後の著書、『国のない男』が文庫化された。ぼくは若い頃からこのおじさんの、ときに辛辣、ときにウイットに富んだ比類なきユーモアに励まされてきた。そして今、ヴォネガットは益々輝きを放つ。

さて本日、都議選告示。ぼくもこまねずみみたいによく動く。
全国の天使のみなさん、東京の天使たちにぜひとも力をかしてくださいませ。
この国の今後に大きく影響する選挙であることは間違いありません。
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劇団民藝「熊楠の家」

flyer_2017kumagusunoie-494x700[1] 木曜日の夜、紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで。今年生誕150年の南方熊楠は評伝が面白い。いろいろな人が書いているがぼくの場合はなんと言っても水木しげる『猫楠~南方熊楠の生涯』だ。野良あがりの愛猫“猫楠”が稀代の奇人にして天才と呼ばれた主人の半生を、呆れはんぶん感心はんぶんに語る。生物学者、博物学者として名高い熊楠は自分の興味の赴くところすべてを研究対象にしてしまう。たとえば虱や陰毛もそうだ。もちろんこの辺は『猫楠』に詳しい。
 芝居は帰国後、田辺定住以降の神社合祀反対運動から粘菌標本献上をトピックとしてたどりながら、熊楠とその家族像を温かく描いている。病気におかされた長男熊弥の将来を案じ思い悩む姿など後半は葛藤する人間熊楠が前面に出され心に響くものがあった。合祀反対でも標本献上においても熊楠が貫いたのは自然への畏敬と自然保護への理解を広げようという強固な意思だろう。人間が自らの欲望や利便のために自然に手をつけむやみに荒らすことは結局人間を滅ぼすに至ると彼はとうに知っていた。時あたかも20世紀初頭、熊楠の思想と生活スタイルそのものが近代化の下に広まっていった合理主義への反旗ともとれる。たまたま青年劇場の若手俳優Sさんと隣り合わせ、聞けば彼女は和歌山県出身でこの芝居をとても楽しみにしていたと言う。熊楠は郷土の誇りなのだそうだ。『猫楠』はまだ、とのことなので是非にとすすめておいた。


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指圧のココロだぁ

image小沢昭一的だが浪越徳治郎でもある。今日は仕事スイッチをoffにした。ぼくの仕事はこれで出来上がりということがなく、何年後、何十年後、つまりぼくが死んでもなかなか出来上がらない、たぶん。でもそこには希望の未来がある。それに一ミリでも近づこうとする徒労の積み重ね、無駄骨折りは無駄じゃない。本当に良きものはその先にあると信じている。憲法が当たり前に生きる居心地のよい未来を多数の同意によってつくろうとしてる。ただそれだけ。実にシンプルだ。カッコつけていえば未来へリレーするバトンをみんなで考えて作ろうよと呼び掛ける。そんな感じ。こういうの一度くらいやってもいいかなと思ってやっている。意志薄弱なぼくのこと、周りの人が言うほど大それた決意なんてない。
久しぶりに浪越指圧Fさんに行ってきた。指圧は凝り固まった身体には痛いくらいだけど、後からとても楽になる。からだだけでなくなんだか心も軽くなる。Fさんの近所の平和公園では子どもたちが遠くからお母さんたちに見守られながら小さな冒険に熱中。サッと日が陰った。さっきまで晴れ上がっていた空にロールパンみたいな雲がはりつめた。かと思ったらまた雲の裂け目から日が差してきた。
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「花よりもなほ」

image 劇団朋友の公演に友だちの館野くんが客演しているので観てきた。原作は是枝裕和監督の同名映画。これも観たけど2006年公開だからもう10年以上前になる。時は元禄、父の無念を晴らすために信州松本から江戸へ出て仇敵を探す宗左衛門。だけど剣術が大の苦手、つまりからきし弱い。見つけたはいいが返り討ちにの目に合わないとも限らないわけで。結局なめくじ貧乏長屋の飾らないハチャメチャな面々と暮らすうちに仇をとらない生き方を見つけちゃうすてきなストーリー。弱さとは人と人が結びあうための確かな力なのだ。憎しみの連鎖を断ち切るといういまを問うキーワードも込められている。宗左衛門役の芦田昌太郎さんはお父さんが松山英太郎さんでお祖父さんが芦田伸介さんなのだそうだ。彼とさしのシーンの多い館野くんがすごく芝居がしやすいと言ってた。
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住宅デー

DSCF0517 土建の住宅デー。土建組合に加入している建築職人さんたちが模擬店も出しながら区内17カ所で包丁とぎや住宅相談、耐震相談など。すべて無料。各会場を車でまわった。会場は公園がほとんどで休日だから親子づれも多い。お父さんに思い切り押してもらって空に飛んでいきそうなブランコを何カ所かでみた。




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花*flower*華~琳派から現代へ

image 花の勢いをかりて広尾の山種美術館でタイトルの展覧会。匂い立つほどの花尽くし。日本画の持つ生命のリアリティに目眩。つれは奥村土牛に感涙。ぼくは田能村直入と速水御舟に釘付け。
その👣で写美へ移動し、“ダヤニータ・シン~インドの大きな美術館~”に引き続き揺さぶられた。
しめは赤坂見附の韓国家庭料理古家庵。
まことに良き1日なり。
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「花戦さ」

DSCF0283 封切られて間もない映画「花戦さ」を昨夜、近所のレイトショウで。
 花はいつも人の喜怒哀楽に寄り添い、時に心を鎮め、時にそれを鼓舞してくれる。
 萬斎の初代池坊専好、猿之助の秀吉、佐藤浩市の利休、それぞれの演技に個性が屹立し、凄みが漂っていた。とりわけ独裁者の側面が強調された、狡猾で嫉妬深くて臆病で残酷なのにどこか愛敬のある秀吉像が新鮮だった。寵愛する利休にうんと言わせたい(屈服させたい)がために、結局は利休を自害へと追い込んでゆく秀吉の歯止めない狂気が悲しい。狂気はさらに膨張しやがて市井の人々にまで及ぶわけだが、その段になると愛敬が、いよいよこちらの恐怖感を増幅する装置としてはたらきはじめる。
 野村萬斎さんはしんぶん赤旗日曜版の「人」でインタビューに答えている。「上に立つ者は自分の持つ毒が見えなくなることがある。それをどう教えるのか。専好さんは花の力で伝えようとしました。そういう意味で、文化・芸術は反権力の力を持ちうると思いますね」と。天下統一の武将も、地位や名声に全く興味がなく誰よりもひたすらに花と人を慈しむことしか知らない専好の前ではただの小狡いおっさんになってしまう。花を前にした人間は皆全てが理屈要らずで対等平等だ。花や緑には人に争いを放棄させる確かな力が宿っている。観ながらモーリス・ドリュオン『みどりの指』の主人公チト少年を思い出した。

 けっしてシリアス一辺倒ではなく、ユーモアもふんだんに盛られて娯楽映画として楽しみながら多くを考えさせられるつくりになっている。遅い時間なのに瞼が重くなる暇がなかったし130分があっという間だった。ラストシーンに、映画っていいなあ、とつくづく。そしてもはや花の無い世界の住人になることなど想像すらできない自分に気づく。映像も美しく、いろいろのインスピレイションも沸いた。
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ソール・ライター展

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 金曜の夜、 Bunkamuraザ・ミュージアムで。雨の滴が流れるガラス越しに撮ったニューヨークの街や人びとなど詩的なカラー写真の数々。展示壁面のところどころにさりげなく置かれた自身の短い言葉が深い。元々は画家志望だったそうでニコラ・ド・スタールを思わせるような色彩の抽象画も印象的。
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 土曜の夜は区立文化会館で「(民族歌舞団)荒馬座創立50周年記念公演~五十年後のこどもたちへ」。働く人々や地域の子どもたちとともに歩んできた座の節目の舞台。太鼓奏者はアスリートだ。それも一級の。三宅島太鼓、おわら、エピローグの秩父屋台囃子で最高潮に。篠笛と太鼓の掛け合いはジャズの即興に通うものがあり酔わせる。祭のトランス状態にも似た高揚感をホールで味わった。写真は先月の平和集会でのもの。
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乾いた風

ちょっと強めだったけど、心地よかった昨日の風。
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クレマチス。

通勤快足👣

その昔“通勤快足”ってビジネスソックスがあって、ぼくも履いていたことあったと思う。抗菌グッズのはしりだったのかしら。
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