どうしたんだ日記

Resonating with the landscape

2018年05月

ブッシュ孝子の詩と死について

もしも 私が死んだら

おざしきぼっこに私はなりたい

誰にも知られず ざしきの中で

みんなと一緒に笑っていたい

     〈もしも私が死んだら〉

 ブッシュ孝子さんは1974年に28歳で他界している。自閉症の治療法の研究者だった。
 乳がんの手術後の1ヶ月間で80篇の詩を書いた。若くして死に直面した孝子さんの心の内を想像することはぼくには難しい。でも人間が本当に好きな人だったのだろう。残した詩は計り知れない孤独と寂寥の向こうに日向と畳の匂いを嗅いでいる。人の笑い声を聴いている。生死をこえたあたたかさを感じる。生きると死ぬはひとつながりなのだと、安堵感さえも授けてくれる。
 死者たちがぼくの周りで笑っている。こちらにいる今も、いつか向こう岸に行ってからも、みんなといっしょに笑っていたい。
A19W2qiEsJL[1]

石神井川

蒸し暑かった1日。仕事の途中にて。
1320311

1320309

1320315

1320319

湿度

湿度を感じる朝。花々もしっとり。
1320305

劇団銅鑼「チャージ」

P1320281 頼まれて劇団銅鑼「チャージ」の舞台写真を撮りました。小さなビル清掃会社が舞台。働くことの意味を問いかける後味爽やかなお芝居です。仕事の中で成長してゆく若者たちの姿が眩しい。栃木県で学校公演が予定されているとのこと。笑いあり涙ありで、撮りながらウルッときてしまった場面もありました。
P1310524






P1310421

P1310501

P1310647







P1310883







P1310946







P1310903







P1320184

P1310475





















P1320224











P1320264
















P1320280

ぶらり、いこう。

1310349
駆け足で府中市美術館の長谷川利行展をみてきた。大好きな画家だ。カフェや遊園地、水泳場など人々で賑わう場所を得意とした。この人にかかれば街中どこでもアトリエ。池袋モンパルナスの若い画家たちからインテリのリコウさんと慕われ尊敬されていた。
サインを見ると“HASEKAWA”とあるから、“ハセカワ”。にごらなかったんだ。作品の入れ替えもあるようなのでもう一度行くつもり。
1310348
1310352
P1310350

劇団銅鑼公演「池袋モンパルナス」

DSC_0031 劇団銅鑼公演「池袋モンパルナス」を観た。2年前と比べると格段によい舞台に仕上がっていた。余分なバリがそぎ落とされてその分密度が高まった印象だ。
 若手役者たち中心の体を張った演技で、若き貧乏画家たちの芸術への無鉄砲なまでの熱が、胸を掻きむしるような葛藤がよく伝わってきた。同時に背後から徐々にのしかかってくる戦争の不条理も巧みに浮かび上がらせていた。
 なぜ今この作品を舞台にかけるのか?の問いにもきちっと答えられるものになっている。
 今回気付いたのだが台詞がとてもいい。靉光や松本竣介、花岡謙二など彼らの言葉の一つひとつが胸に沁み入り、残った。生きることを励ます普遍的なメッセージを内包しているからだ。  
 
 ぜひ長く続けて、鍛え上げていって欲しい作品です。4日間公演という短距離走ですが最後まで駆け抜けてください。その絵筆を高く掲げながら。
東京芸術劇場シアターウエストにて5月27日(日)まで

 池袋の夕日。空が一段と狭くなった。
_20180522_164832

また…

2018_0524_17441800
ベランダのバラが小さく開いた。

塩飴

1310345
早起き。
いつも平和公園あたりですれ違いながらあいさつをかわす年配のご夫婦。今朝は「はい、ご褒美!」と言って塩飴を手渡してくれた。
1310344

緑いよいよ深く

前野町にある三次公園。お気に入りのアングル。上から目線。
1310332

1310334

1310335

1310333

1310338

1310336

Mary Shelley     Frankenstein

1310293 1818年といえばカール・マルクス生誕の年。その年に書き上げられた古典を読んだ。
 巷間伝わるゴシックホラー“フランケンシュタイン”のイメージとは程遠い小説だった。そもそも「フランケンシュタイン」とは怪物の名ではなく彼を作り上げた若き科学者ヴィクター・フランケンシュタインのことだ。ヴィクターの人造人間は元から暴力的ではなかった。むしろ知性に溢れ、深い洞察力と豊かな感性をもっていた。なにより人間になろうとしていた。ではいったい何が彼を4人も手にかけるような憎悪に満ちた怪物にしたてあげていったのか。それは怪異な容貌のために人間社会から拒絶され、創造主にも棄てられ、そのあげくに舐めざるを得なかった底なしの孤独と絶望だった。「いったい自分は何者なのだ?」。3人(三重構造)の“語り”によって構成されているが、怪物の回想には胸のつぶれる思いがした。同時に人間の身勝手に怖気を震った。妻を造ってくれという怪物の切実なただ1つの要求をヴィクターはいったん受け入れるが逡巡のすえ結局反故にしてしまう。
 ヨーロッパの名所を舞台にした物語であり、シャモニー、ライン川、イングランド湖水地方などを巡る紀行文(語り)としても読め、風景描写はため息が出るほど美しい。それらを背景に人間はあまりにも小さく、未熟で傲慢な存在であることを思い知らされる。
  先進的な思想家でもあったメアリー・シェリーは、この小説を連れ合いの詩人シェリーやその友人バイロンと共に過ごしたジュネーヴ郊外で執筆した。