どうしたんだ日記

Resonating with the landscape

2020年07月

新鮮なタコなど

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 ぴゃんから自家製バジルペーストと古君まいもんいちの新鮮な朝漁りタコが送られてきた。さっそく刺身とガーリック炒めで頂いた。また能登に行きたくなるうまさ。ごちそうさまでした。そういえば昨夜は遥か能登にいるぴゃんを相手にオンライン飲み会というものを初めてやってみた。これがなかなか楽しかった。ぴゃんに連れ合いのS子さんから電話がかかってきたときはそれまでのリラックスムードが一変した。画面の向こう丸まってた背筋がピンと伸びて恩師とでも話しているような口調が可笑しくてたまらない。おいおい、君はいったい誰と何を話しているんだよ。録画しとけばよかった。電話がかかる前にたまたま山極壽一さんの話題が出て、猿の群れ社会は序列を作るけどゴリラの群れ社会はあくまで対等平等で序列をつくらないんだよな、やっぱりゴリラにならなくちゃ、なんて話していた。山極さんの著書『「サル化」する人間社会』はウチの本棚にある。断っておくけどS子さんはとてもステキでいい人だ。まあ、それはともかくオンラインでこんなに笑えるとはねえ。年内に能登を引き上げるというからそれまでに行きたいなあ。
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人間でも三次元でもないダメ男

トムとジェリー 「誕生80周年トムとジェリーとカートゥーンの天才コンビ ハンナ=バーベラ」展が全国を巡回している。いまは尾道市立美術館で開催中だ。子ども時代、吠えるライオンで有名なMGMの看板作品は夕方一番の楽しみだった。鼻腔をくすぐる夕餉の支度の匂いと夢中で見入るスラップスティックコメディは遠い日の一対の記憶となっている。

 漫画家のヤマザキマリさんが著書『マスラオ礼賛』の中で、自分の異性嗜好に多大な影響を与えた存在として母方の祖父のほかに、「トムとジェリー」のトムを上げる。その『人間でも三次元でもないダメ男』という表題の明晰で愛もユーモアもある短文は人(猫)物評として傑作である。幼い時分、この番組を見すぎたがために後々出会う異性に対して多少のダメさなら許してしまう寛大さを身につけたというのだからすごい。いや、トムもすごい。“モラリスティックな主旋律を崩さないディズニーの健全アニメには全く惹かれず、秀逸なコメディセンスの中に人生の不条理や皮肉を滲み込ませた「トムとジェリー」に心を奪われ続けてきた”ヤマザキさんのトムに寄せる想いは並々ならぬものがある。

 本はトムのほかに、ハドリアヌス帝、ヴィニシウス、十八代目中村勘三郎、戸田得志郎(マリさんの祖父)、のっぽさん、マルコ少年(母をたずねて三千里)、デルス・ウザーラ、空海、スティーブ・ジョブス、少年ジョズエ(映画「セントラル・ステーション」の登場人物)、初老のマウロさん(イタリアの食堂の主で調理人)、水木しげるなど著者偏愛の古今東西実在架空さまざまな“マスラオ”25人が次々登場して楽しい。
 地球規模的思考と感性で編まれた人間百科(男子編)は、ダメな自分にぶち当たったときに開くここ数年の薬箱でもある。
『マスラオ礼賛』








トムとジェリー展



















今日も雨

紫陽花 銅鑼の大家さんの庭から頂いてきた。

あるがままのアート~人知れず表現し続ける者たち~

DSC_2675 最近、固まりがちだった心と感性の土を掘り起こしに上野の森へ。
 毎週水曜日の夜、楽しみな5分間のテレビ番組がある。ETVの「no art, no life」だ。内田也哉子さんをナビゲーターに、アール・ブリュット(生の芸術)のアーティストの日常と作品を紹介する。必ず録画しているのだが、これをつなぎ合わせたら未来に向かった壮大な美術絵巻になるだろうなと思っていた。芸大美術館とNHKが「障害者の文化芸術国際交流事業実行委員会」とタッグを組んでこの展覧会を実現した。
 25人のアーティストによる200点余の作品は、それぞれに個性が屹立し、一つひとつが強烈な磁力を放っていた。会場では番組の映像が格好のガイドになっている。創造をすることは息をするのと同じだと言わんばかりの繊細かつ奔放な作品群に圧倒された。感性の掘り起こしにとどまらず、全身を撹拌された。とにかく見てくださいというしかない。
 入場は30分ごとの予約制で事前にQRコードを取得(無料)しておく必要があります。https://www.nhk.or.jp/event/art2020/
https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2020/arugamama/arugamama_ja.htm
オンラインでの鑑賞も可能です。
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つげ義春日記

つげ義春日記 昭和50年(1976年)11月から55年(1980年)9月まで、39歳から42歳のつげさんの日記を集めたものだ。この間つげ家には長男(正助さん)が生まれ、つれあいの藤原マキさんは大病を患い、巷には漫画ブームが到来していた。つげ作品も次々文庫化、映像化された。解説で松田哲夫さんが水木しげるさんのコメントを紹介している。「つげは怠け者ですよ。いっこうに仕事をしない。それなのに、前に描いた作品が何度も使われて、お金が入ってくる。自分はあくせく新しい作品を描かなければやっていけない。けしからんですよ」。水木さん流のかつて自分のアシスタントだった後輩への賛歌と受け取ることもできるけど、半分以上本音だろう。
 確かに日記を読むと、つげさんはほとんど漫画創作の仕事をしていない。とはいえ怠けているわけでもない、そっちへ向かうエネルギーがないのだ。当時の主な仕事といえば家事、育児が中心で、あいまに日常から逃れるようにあてもなくふらりと散歩してみたり、中古カメラの掘り出し物をごっそり買い込んだり、雑誌企画の温泉旅行やインタビューに出かけたりといった具合である。取材のギャラや印税の詳細な記録からも読み取れる、収入の不安定にともなう将来への不安は相当なもので、常にそれに脅迫されていたようだ。マキさんが癌に罹ってからは病気に対する恐怖心も日毎に膨張してゆく。貯金が一千万円に達した日も、まったく嬉しくないと吐露しつつ心身の健康を切望している。追いかけてくる生活に悩まされながら、身内に神経を細らせ、他人を気遣い、愚痴り、時に小爆発を起こしては後悔する。
 読みながらクスクス、ニヤニヤしてしまうのは、企まざるユーモアにくるまれた悩みの各種いろいろがこのぼくの中にもしっかりとあるからだ。苦悩の陳列棚みたいな日記なのにページをめくれば体の内側から力が湧いてくるような気さえする。不安にかられたり気持ちが塞いだり、心が内向きになっているときほど、自我をありのままに映すつげさんの文章は眩いくらいの後光が射すのである。
 解説のページに83歳になった現在のつげさんのポートレートが掲載されている。煙草を燻らせながら一点を見つめる表情は仙人のようだ。長く悩まされた不安神経症の症状も今はないとインタビューに返答している。長引いたのは投薬治療が原因だったとも。親と同世代のつげさんにはいつまでも元気でいてほしい。

時が止まった部屋

時が止まった部屋 小島美羽さんは遺品整理をはじめ、いわゆる“ゴミ屋敷”の清掃や、“孤独死”の特殊清掃に従事されている。元々は郵便局員だったが、孤独死一歩手前だったお父さんの突然死がこの道に転職させた。一般的に孤独死は亡くなってから発見されるまで三ヵ月から六ヵ月が経過していることが多いそうだ。最近のマンションは構造的に密閉度が高く異臭が外部に漏れにくいためその分なかなか気づかれないこともあるらしい。現場のミニチュア制作は、誰にでも起こりうるこの現実を多くの人に伝えたいとの思いから独学で始めた。
 遺体は放置すれば腐敗し、仮に自然の中であれば野生動物や昆虫が食べたり微生物が分解するなどして時間をかけて土に還してくれる。でも住宅に土はなく、あるのは畳、ベッド、浴室、トイレ、ダイニングチェアなどだ。遺体から漏れ出る体液は床下へ染み出し、2階以上の場合は階下の天井をどす黒く変色させることもあるという。そうなってようやく異変とわかるケースも珍しくないとのことだ。ここまでくると通常の清掃技術では手に負えない。
 小島さんのミニチュアは完成度の高いアート作品でもある。もし写真だったら生々しすぎて目を背けてしまうかもしれない現実に向き合わせてくれ、想像力を授けてもくれる。一つひとつのミニチュアと添えられた文章からはこの社会問題を広く周知しようという意思と、仕事に対する誇り、確かにあった故人の人生に思いを寄せる柔らかな眼差しが伝わってくる。心を尽くしての遺品の整理のほか、部屋に残されてギリギリの状態で生き延びていたペットを引き取ろうとするなど、いのちへの慈しみが滲む。
 死者の言葉に耳を澄ませてきた小島さんは書く。「わたしは孤独死は悪いことだとは思っていない。人が亡くなることは誰にも止められないし、病院や施設ではなく住み慣れた我が家で逝きたいと思っている人は多い(この場合、「自宅死」や「自然死」という表現のほうがしっくりくる)。自宅で一人で死ぬのが悪いのではなく、発見されるまでの期間が問題なのだ」
 孤独死は日本特有のもので、欧米人に話すと決まって驚愕するそうだ。
 
 
 

咲く

 オリエンタルリリーが一輪咲いた。オリエンタルリリー開花

オリエンタルリリー

オリエンタルリリー 3週間ぶりの休みで池袋へ行き、靴と傘と雨用ポンチョを買った。強風対応の鮮やかな赤の傘は失くすのが難しそうだ。

白いスプレーマムとバラ

スプレーマム 今朝近所で買ってきたスプレーマムの白。









バラ

『霧笛』

レオ・ブラッドベリ 灯台守といえば木下惠介監督の「喜びも悲しみも幾年月」もあるが、真っ先に思い浮かぶのは、レイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』(『太陽の黄金(きん)の林檎』所収)だ。
 陸地から数キロ離れた岩礁の上に立つ古い灯台が舞台。灯台守のベテラン、マックダンと若いジョニーは年に一度姿を見せるという巨大な古代生物に遭遇する。深夜の海上の闇と一筋の光、鳴り渡る霧笛、それに応えるかのように体長30ヤード超の生物が海面から長い首をもたげる。マックダンが霧笛を止めたとき、かの生物は予想外の行動にでる。
 たった一頭残され、何億年もの時を生きなければならなかった深い孤独が人間の逃れえない孤独を呼び起こし、共鳴しながら全編を覆う。
 ブラッドベリならではの詩情を湛えた描写はとても美しく、それがこの物語をいっそう哀しくしている。一度読めば忘れられない短編は萩尾望都さんがこれも含めた『宇宙船は宇宙のウ』として作品化している。先日ここに書いたいしいしんじさんの『麦ふみクーツェ』にもあきらかにそれとわかる挿話が二度出てくる。