2021年02月
「すばらしき世界」
人生の大半を刑務所で過ごした三上正夫。最後の服役は、仕事のトラブルから暴力団幹部と喧嘩抗争になり、日本刀で相手を刺殺してしまったことによる。三上がその13年余りの刑期を終え、厳寒の旭川刑務所を出所する場面から映画は始まる。
『身分帳』
【昭和53年3月22日 法務省矯正局長通達】
収容者身分帳簿は、被収容者の名誉、人権に関する事項及び施設の適正な管理運営上必要な事項等が記載されており、その性質上全体として外部に対して秘として取り扱うべきものであるが、秘密性は被収容者の出所後、更には当該身分帳簿の保存期限経過後といえども変わるところはない。したがって、出所により集結し、釈放後施設において保存すべき身分帳簿の取り扱いは、在所中の者の身分帳簿と同様慎重を期すべきである。
三上正夫のモデル、山川一さんは本来の名を田村明義という。博多芸者の母と軍人の父とのあいだに私生児として生まれた。事情により出生届がなされず本籍地は不明。物心ついた敗戦の年(1945年)に博多芸者の母と離別、北九州市の竜華孤児院に入院。山川さんの記憶に残る母は白い割烹着の後ろ姿である。その後、神戸の養護施設に移る。少年期にさしかかると放浪癖にとりつかれて学校へ行かなくなったあげく施設を飛び出す。大阪、名古屋、東京などの盛り場を転々とする。やがて暴力団の組織事務所に出入りするようになり12歳で京都宇治初等少年院に収容される。誰が名付けたか“喧嘩はじめ”は初犯の奈良少年刑務所から旭川刑務所まで10犯6入、通算23年の刑期を過ごした。山川一の名は昭和31年(1956年)に前橋家庭裁判所の審判で新戸籍が就籍決定したことによる。
山川さんは旭川での刑期が終わりに近づいたころ、権利を行使して自分の身分帳簿の閲覧を請求した。全国23ヵ所の拘置所・刑務所で記録された身分帳は積みあげると1メートルほどになったという。人一倍几帳面で胆力もあった山川さんはその全文をノートに書き写した。ノートの存在を知った作家の佐木隆三さんが山川さん本人に取材し『身分帳』を書き、絶版になって久しかったこの本を下地にして西川美和監督が映画をつくった。
「すばらしき世界」
直情径行型で几帳面。異常なほどの潔癖症で何事も白黒はっきりさせないと気のすまない三上。13年ぶりの社会復帰を45歳で迎えた。今度こそ堅気に生きると自らに誓い、持病の高血圧を抱えながらまずは生活の基盤をつくろうと必死の日々だ。刑務所で培った裁縫の技術はプロ並みである。顧問弁護士や福祉事務所のケースワーカー、アパートの近所のスーパーのオーナー、元殺人犯の出所後をカメラで追うディレクターなどとのかかわりのなかで、ときに爆発しながらもまっとうに生きようともがく姿が役所広司迫真の演技とともに胸を突く。三上の孤独と闇、まっすぐな優しさと絶えず彼を襲う激情と兇器のような怒りに何度も泣いた。他人事ではなかった。行方知れずの白い割烹着の母にひと目会わせたかった。一人ひとりに接してみれば人は温かい。だがその温かいはずの人びとで構成する社会はなぜこうも不寛容なのか。その不可解な地上のうえに今日も真っ青な空が広がっている。優しくて残酷で素晴らしい世界を見おろしている。
「すばらしき世界」『身分帳』
そもそも罪を犯した人に厳罰は有効なのか。たとえば山川さんの生い立ちはそれ自体がいわれなき厳罰を押し付けられたようなものだった。刑務所は罰を与える代わりに生きなおしのための学びを保障する場であるべきではないか。もちろん受け容れる側の理解を広めなければならない。むしろこちらが重要だ。再犯率を上げるのも下げるのも受け容れる側の、社会の度量の問題だから。それはこの本と映画にも見出すことができる。
辺見庸さんはかつてこう言った。「闇は限りなく深い。しかしその〈闇〉は共有されている。犯人と共犯関係にあるのが、我々自身だ」。
根深い偏見や差別が元受刑者の社会復帰を妨げる大きな壁になっているという。それによって行き場を失い再び罪を犯し刑務所へ戻るケースが多いと聞く。社会の不寛容が再犯率を高めているとすれば皆が共犯者だと言えるのではないか。
人間は誰もが脆く欠陥だらけのポンコツである。いつでもどこでもリコールして補修出来るようにしなければ生きていけやしない。山川さんの人柄とその生涯は異彩を放ち不思議な魅力とエネルギーに満ちていて引きつける。まだの方はぜひ本を読み映画を観てください。ぼくなどどれほど力と勇気をもらったことか。
追記
やはり役所広司さんは凄い俳優だ。痛みと優しさ、そして狂気、恐ろしいくらいに。すぐれた俳優は今を生きる人々の代弁者でもあるのだ。
人生の大半を刑務所で過ごした三上正夫。最後の服役は、仕事のトラブルから暴力団幹部と喧嘩抗争になり、日本刀で相手を刺殺してしまったことによる。三上がその13年余りの刑期を終え、厳寒の旭川刑務所を出所する場面から映画は始まる。
『身分帳』
【昭和53年3月22日 法務省矯正局長通達】
収容者身分帳簿は、被収容者の名誉、人権に関する事項及び施設の適正な管理運営上必要な事項等が記載されており、その性質上全体として外部に対して秘として取り扱うべきものであるが、秘密性は被収容者の出所後、更には当該身分帳簿の保存期限経過後といえども変わるところはない。したがって、出所により集結し、釈放後施設において保存すべき身分帳簿の取り扱いは、在所中の者の身分帳簿と同様慎重を期すべきである。
三上正夫のモデル、山川一さんは本来の名を田村明義という。博多芸者の母と軍人の父とのあいだに私生児として生まれた。事情により出生届がなされず本籍地は不明。物心ついた敗戦の年(1945年)に博多芸者の母と離別、北九州市の竜華孤児院に入院。山川さんの記憶に残る母は白い割烹着の後ろ姿である。その後、神戸の養護施設に移る。少年期にさしかかると放浪癖にとりつかれて学校へ行かなくなったあげく施設を飛び出す。大阪、名古屋、東京などの盛り場を転々とする。やがて暴力団の組織事務所に出入りするようになり12歳で京都宇治初等少年院に収容される。誰が名付けたか“喧嘩はじめ”は初犯の奈良少年刑務所から旭川刑務所まで10犯6入、通算23年の刑期を過ごした。山川一の名は昭和31年(1956年)に前橋家庭裁判所の審判で新戸籍が就籍決定したことによる。
山川さんは旭川での刑期が終わりに近づいたころ、権利を行使して自分の身分帳簿の閲覧を請求した。全国23ヵ所の拘置所・刑務所で記録された身分帳は積みあげると1メートルほどになったという。人一倍几帳面で胆力もあった山川さんはその全文をノートに書き写した。ノートの存在を知った作家の佐木隆三さんが山川さん本人に取材し『身分帳』を書き、絶版になって久しかったこの本を下地にして西川美和監督が映画をつくった。
「すばらしき世界」
直情径行型で几帳面。異常なほどの潔癖症で何事も白黒はっきりさせないと気のすまない三上。13年ぶりの社会復帰を45歳で迎えた。今度こそ堅気に生きると自らに誓い、持病の高血圧を抱えながらまずは生活の基盤をつくろうと必死の日々だ。刑務所で培った裁縫の技術はプロ並みである。顧問弁護士や福祉事務所のケースワーカー、アパートの近所のスーパーのオーナー、元殺人犯の出所後をカメラで追うディレクターなどとのかかわりのなかで、ときに爆発しながらもまっとうに生きようともがく姿が役所広司迫真の演技とともに胸を突く。三上の孤独と闇、まっすぐな優しさと絶えず彼を襲う激情と兇器のような怒りに何度も泣いた。他人事ではなかった。行方知れずの白い割烹着の母にひと目会わせたかった。一人ひとりに接してみれば人は温かい。だがその温かいはずの人びとで構成する社会はなぜこうも不寛容なのか。その不可解な地上のうえに今日も真っ青な空が広がっている。優しくて残酷で素晴らしい世界を見おろしている。
「すばらしき世界」『身分帳』
そもそも罪を犯した人に厳罰は有効なのか。たとえば山川さんの生い立ちはそれ自体がいわれなき厳罰を押し付けられたようなものだった。刑務所は罰を与える代わりに生きなおしのための学びを保障する場であるべきではないか。もちろん受け容れる側の理解を広めなければならない。むしろこちらが重要だ。再犯率を上げるのも下げるのも受け容れる側の、社会の度量の問題だから。それはこの本と映画にも見出すことができる。
辺見庸さんはかつてこう言った。「闇は限りなく深い。しかしその〈闇〉は共有されている。犯人と共犯関係にあるのが、我々自身だ」。
根深い偏見や差別が元受刑者の社会復帰を妨げる大きな壁になっているという。それによって行き場を失い再び罪を犯し刑務所へ戻るケースが多いと聞く。社会の不寛容が再犯率を高めているとすれば皆が共犯者だと言えるのではないか。
人間は誰もが脆く欠陥だらけのポンコツである。いつでもどこでもリコールして補修出来るようにしなければ生きていけやしない。山川さんの人柄とその生涯は異彩を放ち不思議な魅力とエネルギーに満ちていて引きつける。まだの方はぜひ本を読み映画を観てください。ぼくなどどれほど力と勇気をもらったことか。
追記
やはり役所広司さんは凄い俳優だ。痛みと優しさ、そして狂気、恐ろしいくらいに。すぐれた俳優は今を生きる人々の代弁者でもあるのだ。
アーカイブ